自然科学的時間

 自然科学的時間でのように、例えば地球の公転というような現象が基準となって、週期を決定する場合には、地球の公転というこの全体が一定に与え[#「一定に与え」に傍点]られて了っているから、夫と週期なる部分との間には云わば何の距離もない。実際、週期は刻まれたる部分[#「部分」に傍点]を意味すると同時に、週期の全体的基準をも意味することが出来る。でこの全体と部分との間には例の 〔Konfiguralita:t〕 が這入る余地はどこにもない。両者は同一平面で重なっている。週期はこのような意味で平面的[#「平面的」に傍点]であろう。時代――そこには 〔Konfiguralita:t〕 が一枚這入る――は然るに、そうではないという意味で、立体的だとも云うことが出来よう。元来性格とは立体的な内容を平面化さずに取り出すための概念であった。歴史的時間が性格と同値である所以はここにも亦明らかである。 吾々がここまで云って来ても併し、歴史的時間の最も大事な特色が云い残されている。 一体、歴史的時間が人々の問題となる動機は、正当には、人々がこの歴史的時間の内で生活[#「生活」に傍点]しているという事実の外にない。之は吾々の生活の時間[#「生活の時間」に傍点]である、今改めて之を思い出さなければならない。 吾々は無論、現在[#「現在」に傍点]に於て生活している、そこで現在は吾々の歴史的時間でどのような位置につくか。 或る人々は現在を永遠にまで拡大する、「現在に於ける過去」、「現在に於ける未来」、「現在に於ける現在」。即ち現在=過・現・未一般=時間一般=時=永遠。かくて「永遠なる今」。又或る人々は現在を幾何学的な一点と考える、現在は長さがない。現在と思われたものはすでにもはや過去である、等。併しこの二つの極端は全く同じ誤った現在概念の裏表に過ぎない。何故ならそこでは現在をばその両端に刻みが這入った一つの時代[#「時代」に傍点]とは考えないのだから。折衷説としては、現在を微分[#「微分」に傍点](点ではない)と考えるか、fringe を持ったものと考える。凡て折衷説が両極端の説と同じ条件に立つことは云うまでもない。微分や fringe には両端の刻みがありそうで実はないのである。こういう現在は時代[#「時代」に傍点]ではない。 こういうような現在の概念は凡て、現象学的時間概念から来る処のものであることを注意したい。現象学的時間に於て、確かに吾々の意識[#「意識」に傍点]は生活しているかも知れない、併し少なくとも吾々の身体[#「身体」に傍点]はそのような時間の内では生活出来ない。

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