客観的な問題

 処が我が国では、この一、二年来、急に新聞が人々の問題に、客観的な問題になって来たように見える。一九三一年の夏以来、諸評論雑誌は期せずして同じく新聞というテーマを取り上げているし、近頃の新聞広告には、新しい新聞学校[#「新聞学校」に傍点]の営業が始められたことも載っていた。之は新聞という問題が、よほど公共化し客観化したという事実を、学校営業者が認識していることを証拠立てる。一方殆んど凡ゆる大学には、大学新聞と新聞の研究会とが設けられていて、それは学生大衆にとって、少なくとも平凡な講義以上の関心をなして行きつつあるように見える。而もこの現象は単に我が国だけではないようである。三〇年の暮ベルリンで行なわれた第七回ドイツ社会学会では、「新聞と世論」という屡々論じられたテーマを課題として、報告と討論とをしている。所謂新聞学――そういう科学が必要であるか存在するかはどうでもいいとして――の専門家である処の新聞学者ではなくて、普通の所謂社会学者達が、新聞を学界の一つの時事問題として選んだことはこの際興味がある。 とに角新聞が、少なくとも今日のインテリゲントにとって、可なり重大な普遍的な問題として、客観化されて現われて来たと見て好くはないだろうか。――かつて新聞記者は社会の良俗からは除外されていたので有名だった。それが又彼等の偽善的な誇りでもあった。実際以前の社会面の記者などには柄の良くないのが多かったそうだし、それでなくとも一体探訪というものが、刑事と同じに、反社会的・反道徳的な性質をもつものだから、彼等が良俗外に置かれたのに無理もない。大学に社会的権威のあった昔は、大学教授や博士は、大臣と肩を並べる程偉かったから、知識と見識に於て優れた一流の新聞記者でさえ、最高学府の権威に較べれば、光が薄かったかも知れない。まして普通の記者の学的素養は一般に低く、大学出身者を記者として一般的に募集し始めたのは、決して古いことではない。だから従来新聞が、インテリゲントの注目を惹く程重大視されなかったのは、この点から云っても尤もだったのである。 それが今日では、新聞はインテリゲントによって、事実、次第に、益々高く評価されるようになって来た。――一体その原因はどこにあるか。

— posted by id at 05:34 pm  

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