新聞礼讃の問題

 だがいずれにしても、新聞の問題は、単に新聞礼讃の問題としてではなく、新聞批判の問題として、今日のインテリゲントの関心を惹くようになって来たことが事実である、この事実は将来増々促進されて行くだろうし又行かねばならぬ。なぜであるか。吾々は何も今更夫を改めて説明する必要はないと考える。 かくて今日、新聞という客観化された問題に対しては、云わば青眼的興味と、白眼的な興味とが併行し又交錯している。実際今日、多少社会意識のある人々は新聞を可なりの程度にまで尊重すると共に、又容易に新聞に対して自らを許そうとはしないだろう。

[#3字下げ]二[#「二」は小見出し]

 新聞は様々な根本的特色を持っている。その週期性と編集性――内容の集合性及び平均性――とはすでに挙げたが其の他に、一般的な通達性[#「一般的な通達性」に傍点]とか、公共性[#「公共性」に傍点]とか時事性[#「時事性」に傍点](actuality)とかを挙げることが出来る。今挙げたこれ等の諸特色は併し、新聞が報道物[#「報道物」に傍点](Nachrichtenwesen)だということに帰着するが、新聞のこの報道性が元来簡単なものではない。報道の理想がその公平無私になければならぬということは云うまでもないが、併し実際には、報道が編集技術[#「編集技術」に傍点]を通過している限り、夫はもはや単純な報道であることは出来ない。報道材料の選択、場面の大小、強調の置き処、標題の付け方、其の他はすでに報道を一つの匿された解釈[#「解釈」に傍点]に基けている。そればかりではなく、新聞の本質は、決して夫が今云ったような意味ででも報道物に尽きるのではない。報道的な部分の外に新聞は、あからさまに解釈的な部分、論説・短評・解説等々――を有っている*。だから仮にどれ程報道物化されても、新聞は終局に於て解釈からの制約を脱することが出来ない、ということがその本質にぞくしている。新聞がだから公平無私であるようなことは、実はその理想ではなくて単純な空想に過ぎない。[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]* 〔G. Mu:nzner〕, Oeffentliche Meinung und Presse, S. 73 参照。[#ここで字下げ終わり]

— posted by id at 05:36 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.2526 sec.

http://bp84.com/