世論と呼ばれるもの

 本当を云えば世論と呼ばれるものは、半ば自然発生的な、半ば人工的に製造された、一つの支配的なイデオロギーに外ならない。処が世論は自分が一つのイデオロギーであることを自覚するのを欲しないのか自覚しても之を告白するのを欲しないで、自分の(抽象的な)普遍性を主張する、そういうことが世論の特色である。世論はその普遍性を標榜することによってそのイデオロギー性を隠蔽する。世論の機関としての今日の大新聞が、そのイデオロギー性を隠蔽しようとするのは、だから何も不思議ではない。 政治新聞――特に党派新聞[#「党派新聞」に傍点]――は社会階級のイデオロギー[#「社会階級のイデオロギー」に傍点]の機関として自らを自覚した。之に反して、今日の資本主義的大新聞[#「大新聞」に傍点]――大衆新聞[#「大衆新聞」に傍点]――は、一般社会の世論[#「一般社会の世論」に傍点]の機関として自らを自覚するものである。処が世論は結局一つのイデオロギーでなくてはならない、それは恰も社会が一般社会ではなくて階級社会であると全く同じである。世論はイデオロギーとして自覚されないにも拘らず、一つのイデオロギーである。で、世論のこの矛盾は、世論の機関としての資本主義的大新聞自身の矛盾となって反映しなければならない。どう反映するか。 世論の機関としての新聞は、そういうものとして発達するためには、実はもはや今度は世論の機関などでさえあることが出来なくなる。ここでは世論などという政治的意見[#「政治的意見」に傍点]は、実はもはやどうでも好い。世論は自分の任じる処のかの普遍性・一般性を獲得するために、出来るだけ政治的[#「政治的」に傍点]なモメントを犠牲にして、市井的なモメントへ移行しなければならなくなる。さて、かくて元来政治的であった世論が、政治的なものから市井的なものへ移行したのが、今日の所謂ジャーナリズム[#「今日の所謂ジャーナリズム」に傍点]である(尤も今日のジャーナリズムが本来のジャーナリズムの本質をなすものではないのを忘れるな)。世論はすでに甚だあやふやな政治性をしか持たなかったが、現在のジャーナリズムになれば殆んど全く政治的な性格を振り落して了う。現在のジャーナリズムは政治的意見の持つかの意志的迫力を失った処の一般感情[#「一般感情」に傍点]にまで抽象された処の、もはや具体的な政治的内容を有たない処の世論である。――かくて資本主義的大新聞は、世論の機関からジャーナリズムの機関[#「ジャーナリズムの機関」に傍点]にまで移行しなければいられない。他の側から云えば、新聞はその解釈的[#「解釈的」に傍点]な部分から報道的[#「報道的」に傍点]な部分にまで結集する。かくて新聞は完全に単なる報道物[#「報道物」に傍点]となるのである。往々人々は新聞を、一方に於て世論の機関だと云いながら、同時に他方に於て報道――夫がジャーナリズムと密接に結合している――機関だと唱える。なる程前にも触れたように、この二つのものは一続き[#「一続き」に傍点]のものには違いない。だがそうかと云って二つの事柄は全く一つではない。却って二つは相反対した事柄であることを忘れてはならない(或る評論家はジャーナリズムを定義して、「対立的社会意識」と呼んだ。そうすれば之は世論と同じになる。処が現在[#「現在」に傍点]の――本質としてではない――ジャーナリズムは正に対立的社会意識ではない[#「ない」に傍点]処にその特色をもつのである)。

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