ブルジョア的一般新聞

 人々はブルジョア的一般新聞――それが資本主義制の下では代表的な大新聞であった――の最近の特色を、ブルジョア的政治新聞の特色から区別して、世界知識の提供、その百科辞典性に求めるが*、知識――又科学――がブルジョア一般新聞に於てのように、感覚的興味本位に、又は精々云ってジャーナリズム本位に、問題として取り上げられねばならない限り、今云ったブルジョア新聞のこの特色にも、おのずから、制限がなくてはならなかった。知識や科学はトリヴィアリズムや資本主義的ジャーナリズム――ジャーナリズム自体は必ずしも資本主義的ではない――の標準に従って満足に取り上げられるものではなくて、云うまでもなく真理[#「真理」に傍点]の標準に従ってしか取り上げられてはならない。そして今知識乃至科学の具体的な真理[#「具体的な真理」に傍点]は常に政治的性格を持っているということを忘れてはならない。だから新聞の知識供給の機能は、その政治的な指導の機能と統一されて、初めて社会的機能として完成することが出来るものなのである。之が新聞の理想である。而も之は不完全ではあるとしてもすでにソヴェート・ロシアに於て大規模に実現されつつある理想であるように見える。――吾々は初めに新聞の問題がインテリゲンチャにとっての問題となると云った。今やそれはプロレタリアにとっての問題であり又、なければならない。[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]* V. Eckardt, Vortrag;(in Vorhandlungen des siebenten Deutschen Soziologentages)S. 38 を見よ。[#ここで字下げ終わり] だが問題はなお残る。検閲[#「検閲」に傍点]と言論出版の自由[#「言論出版の自由」に傍点]とのより立ち入った問題が。之は新聞のイデオロギー論にとっては重大な問題であるが、吾々は之を詳しくは他の機会に譲らなければならない。というのは問題は単に新聞には限られなくなるからである。[#改段]

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