自然の問題はもはや哲学の問題ではあり得ず

 自然の問題はもはや哲学の問題ではあり得ず、自然科学はその自然研究に於て何等の哲学(所謂形而上学)も必要でないと考えられた。この考え方は実証主義(之は経験主義・機械論・科学主義・等々となる)によって総括されるが、この実証主義それ自身が一つの哲学即ち形而上学であることはとに角として、哲学は自然に対しても、自然科学に対しても、即ち自然に対して直接にも間接にも、全く無力なものと考えられるようになったのである。所謂新カント派の批判主義はこの実証主義の主張に対抗して、哲学が、自然の問題に就いて云えば、自然科学の基礎づけ(方法論)を独立に与える資格を有っているという理由によって、哲学を自然科学の侵略から護ろうとしたが、その代償として、哲学が直接に――自然哲学というような形で――自然を問題とすることを厳重に戒めた。とに角批判主義によれば自然はあまり真面目に哲学の問題にはなし得ないのである。 併し今日と雖もブルジョア哲学者又はブルジョア哲学に立脚地を求める自然科学者の内に、自然哲学の建設を企てる者は少なくない。それに、批判主義に見られる科学方法論は、結局科学自身に対する方法論主義と名づけてもいい形式主義であって、之によっては自然科学と哲学との正当な連関を説明することは出来ない。自然科学・哲学・自然哲学・の連関は、之では一向解決出来ないのである。 この問題の解決は現在、唯物弁証法の立場から、自然弁証法[#「自然弁証法」に傍点]という形で与えられる見透しがついたと見て良いだろう。ヘーゲルの思弁的な弁証法による自然の解釈[#「自然の解釈」に傍点]がエンゲルスの手によって、唯物弁証法を使って、もっと実質的な自然探求[#「自然探求」に傍点]の方針として、「自然の弁証法」の名の下に準備に着手されていたのである。自然弁証法の本質に就いては充分慎重な考察が必要だからここで立ち入ることは見合わせるが、少なくとも哲学にとって自然は、自然弁証法という問題形態の下に現われねばならぬだろうということが、要点なのである。 自然弁証法の問題は単に自然と哲学との直接な関係を云い表わすばかりではなく、自然科学と哲学との関係をも亦、ハッキリさせることになるだろう。そこに自然科学の方法と哲学との本当の連関も見出されるだろう。この点は歴史社会の問題に就いても少しも変らない。歴史社会の問題に就いて、自然弁証法に相応するものは史的唯物論[#「史的唯物論」に傍点](歴史唯物論)乃至唯物史観[#「唯物史観」に傍点]である。――歴史社会が哲学の問題になったのは一方に於ては、社会を抜きにした歴史の問題としてであって、その特徴的な場合から云えば、ヘブライ思想がギリシア思想と結合した時代からで、之は聖アウグスティヌスの名と離れることが出来ない。爾来この方向では、歴史社会[#「歴史社会」に傍点]の問題は歴史哲学[#「歴史哲学」に傍点]として、殆んど凡ての哲学者によって取り上げられて今日に至っている。自然哲学が自然の統一的解釈に興味を寄せたように、歴史哲学は人間の歴史の統一的解釈を企てる。世界史の観念(之は併しすでにギリシアのポリビオスから始まったのだがランケで有名になった)や神の世界計画[#「神の世界計画」に傍点]の観念(ヘーゲル)や人類史[#「人類史」に傍点]の観念(ヘルダー)は、後々色々な形で歴史哲学の根本概念になっている。之は哲学乃至歴史哲学と歴史自身との連関の問題なのだが、歴史哲学はこの他に歴史科学方法論としての役目も亦果している(之は恐らくフィヒテから始まるだろう)。

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