物質なら物質

 でそうして見れば、哲学の方法は、この範疇組織の構成とその使用とに帰着するものだということが判る。尤も範疇組織を構成するには、単に範疇相互の間の合理的な連関づけだけでは役に立たないので、それが実在の模写の単位として確実で信頼するに足るということの証拠がなければならないが、それには又、単に諸範疇相互の間に矛盾がないと云ったようなことだけでは不足なので、それが歴史的に淘汰されて来た経歴に判定を一任する他はない。それ故哲学の方法は広い意味での哲学史の必然的な発展に従って取り出されねばならぬということになる。 前にも云った通り、哲学は一切の問題を取り扱い得るものでなくてはならぬ。従って哲学の内容[#「内容」に傍点]の一つ一つを問題にするなら、それだけでも、恐らく哲学は無限のバラエティーを持っているだろう。だが哲学の骨髄はその範疇組織[#「範疇組織」に傍点]に、その論理[#「論理」に傍点]に、その方法[#「方法」に傍点]の内にある。それが論理学・認識論乃至弁証法であった。例えば物質なら物質、存在なら存在という名のついた根本概念即ち範疇があるとする。同じ名でも哲学の方法が異るに従って、この物質なり存在なりという範疇の規定は異る、従って又物質や存在と例えば精神とか観念とかいう範疇との連関自身もそれだけ別になって来る。それから精神とか観念とかいう言葉の方も亦、哲学の方法によって範疇上別な規定が与えられなければならぬ。こうして一定の哲学の方法に対応しては、一定の範疇組織が成り立つものである。この際混乱はただ、範疇上別な規定を持っているタームが、名前の上では同じになっているという一般的な事情から起こるに過ぎない。 哲学の方法と云えば、すぐ様読者は哲学の体系[#「体系」に傍点]はどうなるかと云うだろう。けれども哲学では方法も体系も別なものを指しているのではない。すでに今方法は範疇の組織だと云った、それは取りも直さず範疇の体系[#「体系」に傍点]だということであるが、そうすればこの範疇体系は哲学体系の骨格であろうということは、容易に想像出来ることだ。実際、もしそうでなくて、完全に出来上って了った体格のようなものが哲学の所謂体系だというなら、そういう哲学体系はもはやそれ以上発展の余地のない死んだ固形物でしかないわけで、従って本当は少しの科学性も持てない筈である。だが古来哲学は、こうした意味の体系は一遍も持つことがなかったと断言していいだろう。哲学体系とは要するに一定の方法=範疇組織による合理的な哲学設計図以外のものではないのだ。

— posted by id at 08:13 pm  

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