階下の台所を借りて

 階下の台所を借りて湯をわかしていた母親は、豹一の顔を見るなり、「はよ、二階へ行ったりイ。両方の肩をしっかり持ってたるんやぜ」と、言った。 豹一は友子の枕元に坐って、友子の肩を掴んだ。友子は、苦しそうに、うん、うん、うなっていたが、たまりかねたのか、豆絞の手拭をぎりぎりと噛み出した。 陣痛がはじまっていたのだ。友子の眼のふちは不気味なほど黝んでいた。豹一は、じっとそのあたりを見つめていた。「さあ、もうちょっとの辛抱や。しっかり力みなはれや。聟さんもしっかり肩を抑えたりなはれや。もうちょっとや」 産婆の声をきいていると、豹一は友子の苦痛がじかに胸にふれて来て、もう顔を正視することが出来なかった。(このまま死ぬのじゃないだろうか?)ふと、そんなことを想って、ぞっとした。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」 いつの間にあがって来たのか、母親が産婆の横にちょこんと座って、念仏を低く唱え、唱えしていた。 豹一は眼をつぶった。「はあッ」産婆の掛声に豹一は眼をひらいた。友子の低い鼻の穴が大きくひらいた。その途端、赤児の黒い頭が豹一の眼にはいった。そして、まるくなった体がするすると、出て来た。 産声があがった。豹一は涙ぐんだ。いままで嫌悪していたものが、この分娩という一瞬のために用意されていたのかと、女の生理に対する嫌悪がすっと消えてしまった。なにか救われたような気持だった。「よかった。よかった」と、いいながら、部屋のなかをうろうろ歩きまわった。「じっとしてんかいな」母親が叱りつけた。

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