孤独の部屋

   孤独の部屋

 私は二、三日前からここで暮らしています。ここは備後《びんご》の南端にある、小さな港です。私は深い淵《ふち》のように湛《たた》えた海にのぞんだ、西洋風の部屋を約束しました。この部屋から見ると静かな湾は湖のように思われます。向こうの方に眠るがごとく薄々と横たわった山脈の空は、透き通るように青くて、遠いかなしい景色です。 私はひとりも話す友がない。たいてい書物を読んだり、手紙を書いたり、ひとりで浜に歩きに行ったりして暮らしています。長らくこうして暮らしてると、実に淋しいものですね。二、三日すれば姉が、船に乗って私を見舞いに来てくれます。それを楽しみにしています。あなたはどうして暮らしていますか。私のからだはおいおい快いばかりですから安心して下さい。私はここに当分います。私は部屋の壁に、行李に入れて持って来たキリストの額を掲げました。そして淡青い窓掛の下で中世の宗教的なクラシックを好んで読んでいます。正夫君によろしくいって下さい。学校にはかわりありませんか。 私の宿の近所は色街《いろまち》で、怪しげな灯影《ほかげ》に田舎女郎《いなかじょろう》がちらちらしています。衰えた漁村の行燈《あんどん》に三味線の音などこおりつくようにさむざむと聞こえます。近状知らせて下さい。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 一月二十三日。鞆より)

   「恋を失うたものの歩む道」の原稿

 あなたの手紙が須磨から廻って参りました。何しろおもしろくないでしょう。今少しすれば自由な大学へ行かれるのだから、しんぼうなさい。原稿のことは実に不愉快で私は掲載したくありませんが、私は何よりあなたに気の毒ですし、今私はだれびととも争うたりなどすることを欲しませんから、どうでもよろしいようにして下さい。事を荒立てることは、やさしいあなたに対して、私は忍びません。どうでもよろしゅうございます。ただなるべく削除したところはブランクにして書き入れられるようにして下さい。そして私の原稿を手数ながら送り返して下さい。それは私の親しい両三名の人に、全体の文を読んでもらいたいと思うからです。雑誌へは削除した旨を、付記しておいて下さい。片輪のものを完全のものとして評されることは苦痛でございますから。 ここに仮住居《かりずまい》を定めてからの一週間は何の目に立つ事件もなく過ぎました。私はたいてい部屋で書物を読んで暮らしています。今日は旧正月一日で、この辺はみな旧でお祝いをいたします。今日午後私は海上一時間の航路で姉の家に行きます。そして二、三日その家で暮らして、帰りに姉をつれて来ます。その時にまた書きましょう。正夫君によろしくいって下さい。私の心はこの頃また池州《いけす》に生《は》えた葦《あし》のように小さく揺らぎ出しました。魂は小さな嘆きと、とこしえなるものへの係恋とに伏目がちになっています。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 一月二十六日。鞆より)

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