肺の悪い友

絵を分かった肺の悪い友は非常に落胆して私と別れることを大きな幸福を失うことでもあるかのように嘆きました。いよいよ病院を出る時には玄関まで岩井の母親と嬢さん(聖書の友)や二、三の知人が送ってくれました。肺の悪い友は歩行してはいけないと私が止めるのをもきかずにしいて玄関まで出ました。蒼《あお》ざめた顔には興奮した眼が不安に光っていました。私は門を出る時振り向いてその病友の顔を見た時これが一生の別れだと思いました。門を出ると春浅き街は風がひどく吹いていました。私は「病院よ、祝福あれ」と声を立てて叫びました。そして「みんなみんなしあわせに暮らして下さい」と心のなかで涙とともに祈りました。その日から私は市内にある叔母の家で数日間暮らすことになりました。この家庭は富み栄え、そしてそれがためにかえって不幸なる多くの家庭の一つでした。私はこの家庭にあっては不幸でした。あまりに物質的なる家庭の空気は私の傷《いた》める心にふさわしくありませんでした。私は私のこの頃の他人の幸福のためにおせっかいな心から、そしてキリストの「なんじらは世の光なり、地の塩なり」といわれた言葉などを思い出して、少しく叔母に精神的に和らげられたる家庭について語りました。私は謙遜なる心持ちでいったのだけれどあまり好感情は与えませんでした。また私はお絹さんとの交際に関してきわめて不愉快な疑いをかけられているので、いっそう気まずい心地で暮らさなければなりませんでした。それで私はもっぱら、脊髄病《せきずいびょう》で幼児よりほとんど不具者となっている私の従妹《いとこ》と語り、慰めることによって日を送りました。そのようなわけで、艶子から見舞いに来るという電報を受け取った時には福音《ふくいん》のごとく喜びました。愛する妹は天使のごとく私に来たりました。そして謙さんから美しい西洋の草花の束や、正夫さんからの絵や小説やそして二通の優しき励ましとなぐさめの手紙を受取った時は、まことに幸福な思いに満たされました。私はそれらの幸福をけっして私の受くべき当然のものとは思いません。神様の恵みと感謝いたしました。私はこの頃はあなたたち二人の温かい静かな愛情と理解とに生きています。そしてそれをあたりまえなこととは思われません。どんなに感謝しているか知れません、なにとぞいつまでも愛して下さいまし。 私は、けれど、お絹さんとははかない別れをいたしました。彼女は患家先きに働きに行っていました。そして私は厳重な叔母の家にいるので、女と外で会う機会などつくることはできそうにもありませんでした。もとより彼女は患家を去り私はあえて叔母の心を乱さすならば会えないことはありません。昔の私ならば何の苦もなくそうしたでしょう。けれど私らは交際の初めから「他人を愛しえないならば私らの愛は尊きものではない」と決めました。病人の看護と叔母の心の平和とを犠牲にして別れを惜しむことはよいとは思えませんでした。それで二人はただ二時間ほど患家さきから暇をもらってある旅館であいました。彼女はどんなに泣いたでしょう。そして別府までついて行くといいはりました。そして絶望的な様子をしては「これが一生の別れだ」と幾度も繰り返しました。私は彼女をなだめ心を静かにして人生の悲哀を耐え忍ぶこと、二人の将来は神の聖旨のままに任せ奉ること、もし神のみ心ならばいかに別れても必ず※[#「耒+禺」、第3水準1-90-38]わせ給うこと、私らに最も今大切なることは聖旨を呼び起こす熱き力ある祈祷なることをねんごろに説きました。そしてあまり彼女のなげく時には、どうせどの女をも恋することができないのならば、この女と共棲しようかとも思いました。けれど私は神を畏れました。何の誓もいたしませんでした。二人がどうなるか、何の私たちにわかりましょう? 私たちは神様の領分を侵してはなりません。 けれど私は私の車を送って旅館の灯《ひ》の暗い下に立ちつくしていた彼女のあわれなる顔を忘れることができません。あるいはこれが一生の別れになるのではありますまいか。私たちには未来のことは少しもわかりません。けれど翌日妹とともに広島を出発して下関に向かう汽車のなかで「また会う日まで」の讚美歌を唱った時には、私の心は彼女を抱き、彼女を守り給えと一心に祈っていました。 汽車のなかは案じたる眩暈《めまい》の発作《ほっさ》も起こらず安らかに下関に着きました。その夜は貧しき従姉の家に一泊し、翌朝門司よる筑紫路となり二時間を経て別府に着きました。それから今の宿におちつくまではあわただしい不安な一週間を送りました。私は傷つける心を抱いて春のほしいままな温泉宿にあることは好みませんでした。それで妹にもたのんで別府の町から一里はなれた、鶴見山という残雪を頂いた山のふところにある観海寺温泉に行くことに決めました。霙《みぞれ》の降るある朝私らは一台の車には荷物をのせて山に登りました。野原のようなところや、枯れ樹立《こだち》ばかりの寒そうな林の中などを通りました。そして峻しい坂路は車から下りて歩かなければなりませんでした。それは痔の痛む私にはたいへん困難でした。宿は静かなというよりも寂しい山の中腹に建てられ、遠くにかなしそうな海がひろがり、欄によれば平らかな広い裾野《すその》の緩かなスロープが眺められて、遠いかなしい感じのする景色でした。浴客は少なく浴槽は広くきよらかにて、私の心に適いました。 私はこの地にてはできるかぎり宗教的気分にみちた生活をする気でした。キリストの四十日四十夜の荒野の生活、ヨハネの蝗《いなご》と野蜜とを食うてのヨルダン河辺の生活、などを描いてきましたので。

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