トルストイの性欲に関するエッセイ

 私は先日トルストイの性欲に関するエッセイを読みました。そして女性を純な心で愛せんがための煩悶を共にいたしました。それは私の失恋して以来の不断の問題なのです。そして彼が絶対の貞潔を理想としながら「結婚して貞潔を守れ」といったのを、自己を知った意見と思って同感いたしました。聖パウロが「人おのおの淫行を免れんがためにその妻をもつべし、そは胸の燃ゆるよりはまされば也」といったのを思い出します。じっさい私は時々私の女を見る目を純にするために、妻を持とうかと思うことがたびたびあります。まことに恥かしいしだいですけれど私はそう思われます。肉に飢えたる貪婪《どんらん》の心を思うと、実に浅ましくて、そのような心で女を見ることは実に嫌悪すべきものと感ぜられます。私は私と共生することをせつに希む女と結婚し、そして妻とともに貞潔に志すべきではなかろうか、と思われることもあります。また私は結婚によってさまざまの虚栄心を滅ぼすことができはしまいかと思われます。すなわちよき妻の映像に刺激せられて勉強したり、未婚の婦人と甘ゆる心、媚びるまなこで接したりするようなアイテルな心から免れることができはしまいか。事業、創作などをば真に人類的な目的で営むためには、これらのまどわしは、かなり大きな障害ではありますまいか。虚栄心があっては真に仕事はできません。そして恥ずかしながら私には女は最も大きな虚栄の源になります。私はいっそ結婚してしまおうかとも思います。けれど結婚に関しては熟考を要する問題は他にたくさんあります。私はそう決心してるわけではありません。 ただ私ももはや二十五歳にもなり、永くこうしてブラブラしていますから、この秋頃からは何とか生活のきまりもつけたく、父も老年のことゆえ、財産上のきまりもつけ、東京郊外に家でも持ち、結婚して、いっさいのむなしい、浮わついた心を捨てて、事業と使命とのために、新しい生涯に入りたいなどと寝床のなかでよく考えることがあります。私は生活の歩みをもっと確かにする必要を深く感じています。これらのことはすべて少しも決めてはありません。あなたのお考えなどもついでの時に漏らして下さい。妹は今年は休学させて養生させようと思います。秋からは一緒に東京で家を持つかもしれません。どうもいずこともなく、衰弱して見え淋しそうな様子なので、私も案じています。二人とも何となくふしあわせな、足りない心持ちで同棲しています。私は妹に気の毒に存じます。お絹さんはたびたび熱いやさしい手紙をよこします。彼女の心に悲哀の種を蒔《ま》いたことを、心苦しく思いながら、私は彼女を愛して書物など送ってやったりしています。純な、シンプルな深い感情の響きのあるような書物を読ませてやろうと思っています。 四、五日前には、本田さんという妹の友だちが訪ねてくれました。そして三日私たちとともに棲《す》みました。その人はさまざまな苦しい目にあって鍛錬された強い心を持っていました。今度女子大学を卒業したので、貧しい父母からの送金は断わり、自活するのだそうです。なんでも東京のある家の家庭教師となって、不具の子供をあずかるのだといっていました。私にさまざまな過去の苦しい経験や今の心持ちを語り、そして過去を埋葬(彼女はこういう言葉を用いました)して新しく生きるのですといって、深い決心を示しました。私と妹とは彼女を停車場まで送りました。彼女は何ものかを期待するいきいきした顔をして、でもなごり惜しそうに曇った空を見あげて、熊本の方に去りました。十七の時に無理に結婚させられて、二、三日でのがれて帰り、その時から乙女心を失ってしまったこの女の半生を思って、そして彼女の懐からはなさぬ慈悲の仏の小さな経とを思って、私は涙ぐましくなりました。私は彼女の強い決心を祝福しました。そして正夫さんの「青と白」を貸しました。このことをどうぞ正夫さんに伝えて下さい。 今日はいろいろなごたごたした手紙を書きましたね。私の心はどうも静かでありません。許して下さい。私はもっと心を強くして周囲に支配されぬようにならねばいけません。トマスの「百合の谷」を送って下さいませんか。お天気になれば妹と写真を撮って送りますつもりです。[#地から2字上げ](久保謙氏宛 四月二十七日朝。別府より)

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